──そのとき、秋山さんは雀躍りしておられた。

 それが現在につたわる逸話である。

 時は明治三十八(一九〇五)年五月二十七日、早朝午前五時過ぎのことである。

 持場作業のない者は、甲板で総員起し直後の体操を行なっていた。聯合艦隊参謀の秋山眞之も、そのなかのひとりだった。

 眞之は他の兵員たちから離れて、ひとり、後甲板で体操していた。
──バルチック艦隊来たる。

 その密封報告を手にした伝令手が、

「そら、来たぞ」

 と、叫びながら、駆け過ぎていった。

 兵員たちの手足がいっせいに止まり、どっと喊声があがった。

 各自持場に散っていく兵員たちの群れのなかで、ひとり眞之だけは、

「シ、メ、タ、シ、メ、タ」

 と、その手足を奇妙な格好に振って踊りだした。

――それはまるで、阿波踊りのようであった……、とは、当時「三笠」の砲術長であった安保清種の談である。

 眞之がそれほどまでに狂喜したのには、深い理由があった。

 そのころ眞之は、日本海軍の聯合艦隊参謀の職にあった。

 聯合艦隊における参謀長の職を務めていたのは、のち、大正の御世になって総理大臣の印綬を帯びることとなった、加藤友三郎である。眞之はその加藤参謀長の下の、一参謀に過ぎなかった。しかし、聯合艦隊における先任参謀として、また後に、「智謀湧くが如し」と称されることとなった、その独創力に富む頭脳によって、聯合艦隊中の期待を集めていた。

 その眞之はもとより、参謀長の加藤友三郎以下、幕下の参謀たち全員が、いちばん神経を尖らせ、日夜その脳髄を絞るようにして考え続けていたのが、バルチック艦隊の来路だった。

──バルチック艦隊はどの航路をたどってやってくるのか?

 そのことに、聯合艦隊の乗組員のみならず、日本国中のすべての人々が耳目をそばだたせ、その神経を研ぎ澄まさせていた。

 明治天皇も、桂総理大臣以下の諸閣僚も、山懸参謀総長を始めとする統帥部の幕僚たちも、渋沢岩崎三井らの財界首脳たちも、議会に右往左往する代議士たちも、腰弁当の工員や事務員や女工たちも、村の庄屋や小作人たちも、花柳界の芸者仲居から幇間持ち、奉公人や丁稚小僧、裏長屋に住む左官の八っさん、大工の熊さん、そのおかみさんたちまでもが、バルチック艦隊の来航路を気にかけていた。

 宮中でも議事堂でも、お座敷でも銭湯でも、長屋の井戸端でも、農村の畦道でも、とにかく人が二人以上集ると、

「バルチック艦隊はどちらから来るだろうか」

 その話題でもちきりだった。

 バルチック艦隊来航の目的は分かっていた。中国に配備された旅順艦隊、あるいはウラジオストックに配備された浦塩艦隊と合流して、日本海軍の聯合艦隊を撃破し、日本海を制圧して、満洲における日本陸軍の補給を断絶させることであった。

 補給が断たれれば、日本陸軍は満洲の地に孤立し、強大なる露西亜陸軍に殲滅されざるをえない。それが露西亜の目論見だった。

 それに対して日本海軍は、バルチック艦隊来航以前に、旅順艦隊並びに浦塩艦隊を粉砕し、しかる後にバルチック艦隊と決戦して、これを撃滅することを、その戦略目標としていた。

 旅順艦隊、浦塩艦隊、バルチック艦隊のそれぞれは、それぞれがその一艦隊だけで、日本の聯合艦隊と互角に戦えるだけの戦備を有していた。

 さいわいに旅順艦隊には、先の黄海海戦と陸軍による旅順攻略とで、壊滅的な打撃をあたえることに成功していた。

 浦塩艦隊も、上村彦之丞提督率いる第二艦隊が、八月十四日の蔚山沖の海戦で、戦闘不能におとしいれていた。

 残るはバルチック艦隊だけだった。旅順艦隊が壊滅し、浦塩艦隊が死滅してもなお、露西亜帝国はその威信を示すため、また、敗北と後退を繰り返すこの戦役の起死回生を図るため、あくまでバルチック艦隊を日本に向けて、回航させていたのである。

バルチック艦隊一個をもってしても、日本海を露西亜の手中に収め、満洲の日本陸軍を孤立させようと目論んでいたのである。そしてそれは、充分に採算のある目論見だったのである。

 日本側も、その露西亜側の意図は察知していたが、ここに問題が生じた。バルチック艦隊の来航路である。

 考えられるバルチック艦隊の来航路は、ふたつしかない。東シナ海から対馬海峡をとおって日本海に入るか、太平洋岸を迂回して津軽海峡、あるいは間宮海峡から日本海に入るか、である。

 聯合艦隊は対馬沖近辺に投錨していた。幕僚たちのほとんどは、バルチック艦隊は対馬海峡にやってくる、と、考えていた。

 しかし、万が一……、の懸念がないではなかった。

 万が一、バルチック艦隊が津軽海峡方面に向かったとなれば、対馬沖近辺に布陣する聯合艦隊は、どんなに急いでも、バルチック艦隊を迎撃してこれを撃滅することは不可能だった。

 戦闘能力の問題ではない。地理的、時間的の問題だった。

 聯合艦隊に課せられた任務は、単なる「勝利」ではなかった。それは敵艦隊に対する、完膚なきまでの、徹底的な「壊滅」であった。たとえ一隻でも、敵艦を取り逃がすようなことがあってはならなかった。そうなれば、日本海はその一隻によって攪乱され、その制海権は破綻せざるをえなくなるだろう。

 しかも、その勝利を得るために与えられた時間は、わずかに一日――日没後数時間まで、だった。

 日が沈み、視界が闇に閉ざされて、それがために敵艦を取り逃がすようなことがあってはならないのである。

 幕僚たちの一部からは、対馬津軽両海峡の中間地点である能登半島付近で待機しようと云う意見も出た。

 能登半島からであれば、バルチック艦隊が、対馬津軽いずれの海峡を通過しようとも、これに対峙できる、と、云うのであった。

 しかし、この意見は採用されなかった。敵艦隊が対馬津軽両海峡のいずれからやって来るにしても、能登半島付近からでは接近に時間がかかり、敵艦隊をその日中に「壊滅」しえない、と云うのが、その理由であった。

 バルチック艦隊を迎撃するにあたって、聯合艦隊の参謀たちは、その知嚢を搾り尽くした。その心労は、あたかも神が、人間はどの程度までの心労に耐え得るのか、それを試みるために、あえて設定したもの、と、思われるほどだった。いや、それを設定しえたものがあるとすれば、それは神ではあるまい。悪魔ででもなければ、人間に、このような苛酷な試練を与えることは、できなかったであろう。

 加藤友三郎はその心労のあまり、アルコールの助けを借りなければ眠ることもできず、終日、激しい胃の痙攣に悩まされ続けた。のち彼は、総理大臣の現職のまま、世を去ることになる。死因は、大腸癌であった。このときの心労が、彼の寿命を縮めたのである。

 眞之については、こんなエピソードがある──。

 ある日、幕僚会議が終ってからでも、参謀たちはバルチック艦隊の来路について、議論を戦わせていた。

 夜も更け、各自散会した。

 とある参謀が忘れ物を取りに、作戦室に戻った。

 作戦室のドアを開けたその参謀は、ギクリとなった。心臓が鼓動をとめ、身体が硬直した。

 真っ暗闇のその部屋の奥で、小さな二つの光が、妖しげに光っていたのである。

 当初、灯りの消し忘れか、と、思ったその光は、眞之の目だった。彼は他の参謀たちの懇談に加わらず、会議が終るとすぐにこの部屋に来て、長靴も脱がず、軍服姿のまま、ソファーに横たわっていた。そしてバルチック艦隊の来路について、ひとり悶々と、考え続けていたのである。

 このように、日本中の人々が懸念していたバルチック艦隊の来航路が判明したとき、来るべき日本海海戦の帰趨は決定された、と、云ってもいい。

 

 だからと云って、眞之は、いつまでもアホウ踊りしているわけにはいかなかった。

 参謀の任務は、この時点でほぼ終了していた。後は東郷を筆頭とする各艦隊司令長官の指揮運用と、各艦各員の奮励によって、勝敗を決するばかりだった。

 しかし眞之には、まだしなければならない仕事が残っていた。東京の大本営に打電する、電文の起草である。

 眞之は、兵員たちが慌ただしく各々の持ち場へと散っていく甲板上を、見たところ、悠然とした足取りで、幕僚室へと向かった。

――侍たるもの、めったなことで慌てふためき、駆けだしたりするものではない。

それが侍たるものの心得である。

伊予松山の御徒歩組十石取の下級武士の出身とは云え、眞之も立派な武家の子である。そう云った武家の躾が、明治の御世となって三十八年、眞之三十七歳の現在でも、その身には沁みついていた。

 幕僚室へと急ぐ眞之の脳裏に、ふと、ふたりの男の顔が浮かんだ。

 ひとりは、眞之の十歳年上の兄、秋山信三郎好古、で、あった。

 

――あのな、赤ん坊を、お寺にやっちゃ、いけんぞな。おっつけ、あしが勉強してな、お豆腐ほど、お金をこしらえるけんな。

 その頃秋山家は、貧窮の極みにあった。とてものことに、新しく産まれた子供を養育していけるような余裕もなく、自信もなかった。

 悩みに悩んだあげく、父が出した結論は――、

――どこかの寺に養子に出そう。

 と、云うものだった。

 その結論を、夜半、妻に切り出したとき、襖をあけて反対したのが、当時十歳だった信三郎だった。

 信三郎は生まれたときから病弱で、母親の貞は――、

――苦労して育てても、こんなに脾弱い子では、先行きこの子も、不幸なだけじゃろう。

 と、思い詰めて、背負った子供(信三郎)とともに、橋の上から入水しようとしたことが、なんどもあった、と、云う。

 その信三郎が、このときは必死の面持ちで、産まれたばかりの赤子を寺に遣らないでくれ、と、懇願したのである。

 父久敬は、

――あの、弱みそ(弱虫)の、信三郎がのう。

 と、後々まで、目を細めて語った。

 そのときの赤ん坊が、聯合艦隊先任参謀の、秋山淳五郎眞之、である。

 眞之は自ら恃むところ頗る厚く、容易に他人に屈しない男であった。

 親戚の集まりがあっても、つねに自分が上座を占め、伯叔父、大伯叔父、相手がいかに年長者であっても、決してその座を譲ろうとはしなかった。

 そんな眞之であったが、兄信三郎好古にたいしてだけは、その姿が廊下の端にでも見えようものなら、自分の敷いていた座布団から即座に飛びのき、いままで自分が占めていた上座の座布団を裏返して――、

――ささ、兄さん、どうぞこちらへ。

 と、平伏するのであった。

 その兄、秋山信三郎好古は、いま満洲の野にあって、「世界最強」と謳われた、露西亜のコザック騎兵を相手にしている。

 

 好古は、「日本騎兵の父」と呼ばれた。

 明治維新政府が発足したとき、新政府の陸軍には、騎兵と云うものが存在しなかった。

――この狭隘な日本の国土のなかで、騎兵などを必要とする余地はない。

 と、云うのが、その理由だった。

 周知のように、明治維新政府は、欧米列強による植民地化への危機意識から発足した。

 その首脳たちの頭にあるのは、欧米列強による蚕食から、如何に国土を衛るか、であり、他国の領土に踏みこんで戦をする、と、云う発想はなかった。勢い、騎兵を必要とする考えもなかった。

 当時の日本には、西洋風の「馬」がいなかった。現在われわれが知っている鵯越の戦い、桶狭間の戦い、長篠における武田騎馬軍団の存在、それらはすべて、後世に創作されたフィクション、物語である。日本には、かつて、騎乗した戦闘者の集団を組織して戦さ場に臨む、と、云った考えはなかったのである。

 日本の馬は、戦闘に用いるには、あまりにも不適だった。馬格は小さく、体力も、速力も、なかった。西洋人から見れば、大きな犬、くらいにしか、見えなかった。

 実際、明治維新後に日本馬を見たとある西洋人士官は、「馬のような馬」と、冷笑したものである。

 日本の馬は、駕籠と同じく、上級将校の運搬用にすぎなかった。

 明治四年、廃藩置県を控えて、薩長土の三が、それぞれ自前の兵力を新政府に献上して、いわゆる御親兵なるものがつくられた。

 そのさい、土佐藩のみが、騎兵を有していた。二個小隊(馬数二十頭)であった。当然のことながら、いずれも日本馬であって、欧米の基準で云う騎兵とは云い難かった。

 日本の騎兵隊は、まず、西洋種の馬を育てるところから、始めねばならなかった。

 最初にしたのが、オーストリアから牝馬六頭を購入し、これを日本の馬と交配させることによって、少しでも騎兵としての用に立てる馬を育てることだった。

 以来、三十有余年、好古は騎兵の成長とともに歩み、満洲の野で、「世界最強」と謳われた、露西亜のコザック騎兵を相手にしようとしている。

――秋山旅団長の指揮の下でなら、負けることはない。

 好古指揮下のすべての騎兵が、そう信じていた。

 実際好古は、その旅団をよく統率し、よく戦い抜いた。

 世界中の軍事関係者が、日本騎兵ではとても露西亜のコザックには敵し得まい、と、思っていたのが、みごとにこれを打ち破ったのである。

 のちに、「秋山好古の生涯の意味は、満洲の野において、世界最強の騎兵集団を破るというただ一点に尽きている」と賞されたとおりである。

 日露の開戦が必至となったとき、好古は弟眞之に宛てて、次のような意味の手紙を書いた。

「最早日露の開戦は避くべからざる処。かくの如き邦家の一大事に際し、弟は海、吾は陸にて、国家の難敵に会せんとす。これまた男子の痛快事ならん哉」

 日露の開戦が決定したとき、世界中の多くの人々が、

――これで地上から、“ニッポン”と云う国家は亡くなるであろう。

 と、思った。いや、思った、のではなく、信じた。信じて、疑わなかった。

――ロシアの保護領で収まれば幸運だろう。

 それが世界の常識だった。

 日本でも、元老筆頭の伊藤博文などは、親しい者にもらしている。

「とても戦になど、なりゃせんよ。

 露西亜はシベリア鉄道を使って、武器も兵員も食糧も、どんどん輸送してこられる。

 ところが、我が国はどうじゃね。

 日本海を渡ってすべての物資を運ばねばならぬが、露西亜はこの極東に、旅順、浦塩の二大艦隊を配備しておる。このうちのいずれか一方だけでも、我が国の聯合艦隊に匹敵する陣容じゃ。

 もし我が国の聯合艦隊が敵し得ず、露西亜に海上権を奪われたら、どうなるね。

 我が国は兵員も物資も輸送することができず、半島や大陸にある我が陸軍の駐留部隊は、日干しにされてしまうだろう」

 それなのになぜ開戦するのか、と、云うと、

「やらにゃ、ならんのじゃ。

 このまま荏苒と時が過ぎれば、露西亜は満洲を取り、満洲の後には朝鮮を取り、朝鮮の後には、この日本を取ろうとするじゃろう。そうなる前に開戦して、できるかぎり露西亜の南下を食い止める。そうして、なんとか講和にもってゆく。それしか日本の生き延びる道はないんじゃ」

 伊藤が、恐露病患者、と、云われていたことを差し引いても、悲痛な思い、と、云って、いいだろう。

 伊藤は、開戦を主張する連中に向って、

「儂は君等の名論卓絶を必要としているのではない。軍艦と大砲の数に相談しておるのだ」

 と、云い放ち――、

 時の総理大臣、桂太郎は、開戦を主張する東大の博士七人が彼の自宅を訪れてその意見を縷々して辞去した際、家人に向って、

「バカが七人、やってきおった」

 と、ニガニガしげにつぶやいたものだった。

 ニコポン宰相と呼ばれ、他人の御機嫌を取り結ぶこと当代絶妙、と、云われていた桂太郎にして、この苦言を吐かせるほどに、当時の状況は、緊迫したものだった。

 実際、これほどの国難に見舞われたのは、元国の襲来――文永・弘安の役以来、と、云っても、いいかも知れない。

 その国難に際し、日本の片田舎(と、云っては、失礼かもしれないが)、四国は伊予松山十五万石の、わずか十石取にすぎない御徒歩組に生まれた兄弟が、兄は陸、弟は海において、それぞれその重責に任じていた。

 それだけではない。先述したように、兄は「日本騎兵の父」と呼ばれ、とうてい敵し得ないと云われたコザック騎兵と対峙していた。

 弟は、その「智謀分くが如し」と称された脳髄を絞りつくして、バルチック艦隊撃滅の策を練っていた。

 まさに奇蹟としか云いようのない、歴史の演出である。

 

 歴史の演出は、いま、眞之を、三笠の幕僚室へと、急がせている。

 その眞之の脳裏に浮かぶ、いま一人の人物は、彼の幼馴染み――ノボさんだった。

 ノボさん――正岡升、と、云うよりも、俳人正岡子規、と、云ったほうが、分かり易いだろう。

 ふたりは幼少時からの知友であった。が、その性向は、大いに異なっていた。むしろ、正反対、と、云ってもよかった。

 眞之は――、

「秋山の淳さんは、恐くて好きだった」

 と、云われるように、強烈な腕白小僧だった。

 あるときなど、そのあまりの腕白ぶりに業を煮やした母親が、彼の前に短刀を突きつけて、

「淳、これでお死に。私もあとから死にます」

 と、眦を決したものだった。

――淳さんのきょうとがる(恐とがる=こわがる)んは、信三郎兄さんくらいのもんじゃ。

 それが、松山の腕白小僧時代から始まって、日露戦後に到るまでの、眞之に対する、評の一つだった。そしてそれは、的確に過ぎる評だった。

 一方のノボさんは――、

 終生彼をかわいがっていた母親も、外祖父の大原観山も――、

――これはなんとしたことじゃ。

 と、嘆息することが多かった。

――ノボさんほど臆病な子もいない。

 それが松山城下での評だった。

 これが農民や、町人の子ならばまだいい。

 ノボさんの家は、立派な侍、それも、御馬廻格、と、云う、歴とした上士の家柄なのである。

 その上士の嫡男が――、

――能狂言を見に云っては、鼓や太鼓の音が怖い。
 と、云っては泣き出し、

――同い年の子どもたちの喧嘩にあっては、真っ先に逃げ帰って押入れの中で震え、

――あげくには、隣屋敷の塀から下女が顔を出したのが怖い、と、云って、泣きながら帰って来る。

 と、云うのだから、母親や外祖父が嘆息したのも無理はなかった。

 しかしそのノボさんが、近代、明治維新以降、我が国の国文学――とりわけ、和歌俳句――に、革命的な変革をもたらすのだから、人間とは、解からないものである。

貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候」

 当時紀貫之を崇敬し、歌詠みの手本として崇め奉っていた人々にとっては、冒涜にも等しい言葉、ケンカを売っている、としか、思えない言葉だった。

 ノボさん――子規は、その後も、歌壇俳壇にたいして、激烈な攻撃の言葉を浴びせ続けた。

 眞之はその様子を見ながら、

――あの弱みそのノボさんが……

 と、驚嘆せずにはおられなかった。

「お身さんは、あしなんぞよりも、よっぽど、勇敢じゃ」

 あるとき、病床にあるノボさん――子規を見舞った眞之は、心底から、そう云った。

「軍人の淳さんにそう褒められては、どがいにもならんのぉ」

 ノボさんの頬には、もはや血の気がなかった。しかしそれでも、嬉しそうに笑うノボさんの顔は、松山の頃から慣れ親しんだ、昔ながらの、ノボさんの顔だった。

 眞之が初めてノボさんに会ったとき――そのときノボさんは、髷を結っていた。

――丁髷頭を叩いてみれば、因循姑息の音がする。

 と、云われた時代である。

 ノボさんは、“髷ノボさん”と云われて、みなから調戯われた。

 そしてその都度、泣いて帰った。

 眞之も何度か揶揄ったことがある。

 しかし、そんな弱みそのノボさんを揶揄いながらも、どこかに、引け目を感じるところがあった。

 喧嘩や腕力だけでは勝てない、人間としての度胸、底力、そう云ったものが、ノボさんにはあった。

 眞之とノボさんは、故郷松山の勝山小学校、松山中学校、そして東京の共立学校、大学予備門、と、つねに同じ人生を歩んできた。

 そのふたりが訣別することになったのは、眞之が大学予備門を辞して、海軍兵学校へ進んだためである。

――立身出世なにものぞ。ともに文学を究めよう。

 と、手を取り合って誓い合った、その誓いを破っての、海軍兵学校への進学であった。

 このことは眞之にとって大きな負い目となり、以後、ノボさんとは疎遠になった。

 ノボさんはそんなことに頓着しなかった。もともとが、細かいことにこだわらない、鷹揚闊達な性格である。

――なんで淳さんはあしを避けるのじゃろうか。

と、首をひねっては、

――海軍に行ったからとて、そがいに気にすることもあるまいに。

 そう思っていた。

 ちなみに、子規と漱石の交友も有名だが、子規が病床に臥せっている頃、漱石は国費留学生として、ロンドンに滞在していた。

 日本における英語教育法の研究のため、と、云うのが、その理由であったが、漱石はそれに、英文学の研究をも加えることを承知させて、彼の地に赴いたのである。

 漱石はこのロンドン滞在中、文化や生活習慣の違い、一向に進展せぬ研究成果のために、極度の神経衰弱に悩まされた。その精神緊張――現在で云うところの“ストレス”――よって、漱石は、おなじ日本からの留学生をして、「夏目、狂せり」と、本国に打電せしめるほどの状態に陥っていた。

 漱石自身、後にこの時期のことを回想して、「文学に裏切られた」、「もっとも不愉快な二年間」と、述べている。

 ノボさんは自ら病床にあって、漱石からの来信がないことをいぶかしみ、

――あいつ、またなにか、抱えこんどるんじゃろうか。

――人一倍神経質なくせに、強情で、素直に、苦しい、と、云えんヤツじゃけんのぉ。

 と、その身を気づかった。

 眞之と同じく漱石も、この時期、病に苦しむノボさんのことを気遣ってやれなかった自分を、生涯、責め続けた。

 ノボさんがこの世を去ったのは、明治三十五年九月十九日のことだった。

 十七夜の月明が輝く夜だった。

――子規逝くや 十七日の 月明に

 そう詠んだのは、ノボさんがかわいがっていた門弟のひとり、高浜虚子である。ノボさんにとっては、同郷の後輩でもある。

 ノボさんは旅を好んだ。見知らぬ土地を訪れ、その風景、物産、人気に接するのが好きだった。そして、目にし、耳にし、肌に触れたそれらを、歌に詠み、句に立てた。

――淳さんはええのぉ。

 眞之が米国留学から帰国し、ノボさんの家を訪ねたとき、ノボさんはいかにも羨ましげに云った。

――あっちゃやこっちゃ、日本どころか、亜米利加にまで行けて。

 まるで眞之が、物見遊山であちこちを巡り歩いているかのようなその口ぶりに、眞之は苦笑を禁じ得なかった。

 ノボさんはすでに病魔に蝕まれており、とてものことに、長期の旅行に耐え得る身体ではなかったのである。

 それでもノボさんは、対清国戦争――いわゆる日清戦争――が勃発すると、居ても立ってもおられず、従軍記者として大陸に渡ることを希望した。

 当然のことながら、周囲の者は猛反対した。

 母や妹、かかりつけ医、新聞の仲間や上司たち、みなこぞって、ノボさんの渡清には反対した。

 しかし、ノボさんは諦めなかった。執濃く、粘り強く、周囲の人々を説伏し、遂にはみずからの希望を成就させた。

 幼い日、伊予松山から東京に出るときもそうだったが、ノボさんには、これ、と、思い込んだら、一念一途にそれを成し遂げようとする執着力、根気強さがあった。

 周囲の者は、たいがい根負けして、結局は、その思うようにさせるのだった。

――ノボには、待て、しばし、が、ないけに。

 と、母親のお八重は、すでに諦めたように、しかし心のどこかで、その一途さを誇るかのように、苦笑したものである。

 ノボさんは、ようやく念願かなって、清国に渡ることになったが、その頃にはすでに戦いは止み、講和の談判が開かれようとしていた。

 ノボさんは徒らに戦場跡を眺め歩くほかなく、ひと月ほどで、帰国の途に就いた。

 そしてその帰国途上の船中で喀血し、緊急入院した須磨明石の保養院で、生死の境を彷徨うことになったのである。

 ノボさんの渡清は、彼の寿命を縮め、その生命を奪う引き金となった。

 

 日清戦争は、戊辰の内戦を経て成立した維新政府が初めて遭遇した、本格的な対外戦争だった。日本史上では、太閤秀吉藤吉郎の朝鮮出兵――文禄慶長の役以来のものだった。

 それまで「藩」の枠組みのなかで暮してきた人々にとって、明治維新政府が成立して日本が統一国家となり、「国民」となっても、そのことを実感した人は、ほとんど、いなかった。

 日本中の人々が、「国民」としての実感を抱いたのは、おそらく、この対清国戦争のときだったろう。

 多くの日本人が、この戦争に興奮し、熱狂した。

 各地に義勇兵志願の運動が巻き起こり、それを抑えるために詔勅が下されたほどだった。

 新派劇の創始者として有名な川上音二郎は、「支那征伐」と云う芝居を上演し、大当たりをとった。

 各地で献金献納の動きが盛んとなり、政界も新聞界も、こぞってこの戦いを称揚した。

 後の日露戦争に際して、非戦論を唱えた内村鑑三も、このときはこの対清国戦争を「義戦」と捉えた。

「東亜の平和を攪乱する清国を討つべし」

 と、云うのが、おおかたが唱えた名分だった。

 ノボさんも、当然のように熱狂し、従軍記者として渡清することを望んだのは、先述したとおりである。

 ノボさんが従軍記者として渡清を望んだのはしかし、たんに日本初の対外戦争の興奮と熱狂によるものだけではなかった。

 ノボさんはこの日本初の対外戦争の現場に身を置き、現地の状況を、じかに、その目で見、その耳で聞き、その鼻で嗅ぎ、その肌で感じ取ろうと欲した。

 そしてみずからの実感した日本初の対外戦争の状況を、新聞の紙面に、記事として、あるいは短歌として、俳句として、みずからの提唱した「写生」の理念をもちいて、表現しよう、と、野望したのである。

 

 ノボさんは生涯、「写生」と云うことを云い続けた。

 空想や想像ではなく、見たまま、聴いたままを、素直に表現するその手法は、小手先の理屈や言葉遊びなどをもって成り立っていた当時の俳風に、大きな衝撃を与えた。

――天然自然は、それだけで、充分、きれいなもんなんじゃ。それを小手先でゴチャゴチャいじくりまわす必要なんぞないぞな。きれいなもんは、そのまんまで、充分、きれいなんじゃ。

――言葉数もいらん。くどくど説明したところで、美しさっちゅうもんは伝わらん。

ズバリ、と、単純明快に言い切ってこそ、美しさっちゅうもんは、表現できるんじゃ。

――芭蕉のな、「古池や 蛙とびこむ 水の音」っちゅう句があるじゃろう。

寂しきを、寂しと云わずして、寂しさを思わせる。それこそが、「写生」の妙味ぞな。

――「五月雨を 集めて速し 最上川」っちゅうのは、いけんぞな。「集めて」も、「速し」も、それを見とった人の判断が入っとる。集まっとるか集まっとらんか、速いか遅いかは、人間の判断ぞな。

 それにひきかえて、「五月雨や 大河を前に 家二軒」ちゅうのはええ。

 情景を詠んどるだけなんじゃが、それでも、五月雨の烈しさ、大自然の凄さ、それに遭遇した心細さが、巧く表現されとる。これはええ句じゃ

 それがノボさん――正岡子規の、「写生論」だった。

 なるほど、そう云うものか、と、眞之は感心したものである。

 

 いま眞之は、戦艦「三笠」の幕僚室にいる。

「秋山中佐、大本営への文案、これでよろしいでしょうか」

 幕僚のひとりが、紙を差し出した。

――敵艦見ユトノ警報ニ接シ 聯合艦隊ハ直ニ出動 之ヲ撃滅セントス

 一瞥した眞之は、

「ええじゃろう」

 と、その紙を返した。

 ところが、

「ああ、待て、待て」

 その男を呼び止めた。

 そして、テーブルの上に転がっていた鉛筆を拾い上げると、

「貸してみい」

 と、その紙を取り上げると、

――本日 天気晴朗ナレドモ 波高シ

 と、付け加えた。

 かつて上村彦之丞率いる第二艦隊は、日本海に発生する濃霧のために、幾度も浦塩艦隊を逃してしまった。今回は天気晴朗なるがゆえに、そのような濃霧の発生する心配もなく、したがって、バルチック艦隊を取り逃がす恐れもないであろう、と、云う意味である。

 また、波が高ければ、腰高な露西亜の軍艦は不安定となり、防御の弱い下腹部をさらすことになる。それに比して、重厚な日本海軍の艦艇は腰が据わり、砲撃も安定するであろう、との意味を込めての、電文であった。

 この電文の起案に加わった飯田少佐は、

――あの一句を挿んだだけでも、我々の頭脳は秋山さんには遠く及ばない。

 と、後々までも、感嘆したものである。

 その一句を加えた電文を持って走り去る同僚の後ろ姿を眺めながら、眞之は、ひとり、胸につぶやいた。

――ノボさん、これが、お身さんから教おうた、あしの、「俳句」ぞな。

 日本の命運をかけた戦いが、いま、始まろうとしている……。

民話や童話、伝承伝説などには、“異類婚姻譚”と呼ばれるジャンルに分類される話があります。
“異類婚姻譚”とは、「人間と違った種類の存在と人間とが結婚する説話の総称」です。(Wikipediaより)
世界各地に残る神話伝説、とりわけ古代国家の建国伝説は、ほぼすべてが、この“異類婚姻譚”である、と、云えるでしょう。
我々に身近な話では、信太山の葛葉伝説や、アンデルセンの人魚姫などが思い浮かびます。雪女なども、このジャンルに入るでしょう。
なかでも有名なのが、「夕鶴」です。

これらの話には、一定のパターンがあります。
それを概括しますと、以下のようになります。

一 援助 - 例:動物を助ける。
二 来訪 - 例:動物が人間に化けて訪れる。
三 共棲 - 例:守るべき契約や規則がある。
四 労働 - 例:富をもたらす。
五 破局 - 例:正体を知ってしまう。(見るなのタブー)
六 別離

「夕鶴」はこのパターンを完璧に備えています。
それゆえにこそ、「夕鶴」は、いまに語り継がれる名作になっていると云えるのですが、しかし、「夕鶴」の魅力は、それだけに尽きるものではありません。
それではなにゆえに、「夕鶴」はかくまでに魅力があるのでしょうか。
「夕鶴」が如何に上記のパターンに合致しているかを検証しつつ、それだけに止まらない「夕鶴」の魅力を、以下の叙述で、明らかにしていきます。

一.援助 - 動物を助ける。
或る日の夕暮れ、猟師の与兵(よひょう…漢字は筆者の当て字)は、罠にかかっている一羽の鶴を助けます。

二.来訪 - 動物が人間に化けて訪れる。
その夜、ひとりの女性が、与兵のもとを訪れます。彼女は夕刻、与兵が罠から助けた鶴でした。

ここで誤解してはならないのは、与兵に助けられた鶴は、助けられた恩返しにやってくるわけではない、と、云うことです。
ですから、「夕鶴」を「鶴の恩返し」と題することには、違和感をおぼえます。
動物たちの世界と云いますと、自然で、鷹揚で、のびのびしていて、ゆったりした、いかにも平和な世界、と、思われがちですが、じつはそんな生易しいものではありません。
動物たちの住む世界は、まさに弱肉強食、強いものだけが生き残り、弱いものは死なねばならない、つらく、厳しく、残酷な世界なのです。
とりわけ人間の存在は、動物たちにとっては、恐ろしく、いやらしく、忌まわしいものでしょう。
彼らは木を伐採して自分たち(動物)の住処を奪い、罠を仕掛け、弓鉄砲、銛網などの道具を使い、自分たち(動物)を苦しめます。
自然界のあらゆる動物たちにとって、人間こそは、最大の天敵でしょう。
そんななかにあって、人間の仕掛けた罠にかかって苦しんでいる自分を助けてくれた人間の存在は、動物にとっては、とても信じられないものでしょう。
罠にかかって捕えられたら、それはすでに死を意味するのが、動物の世界の常識です。
それを助けてくれるのですから、動物としては、とても信じられない出来事です。
助けられた動物は、そのやさしさに惹かれて、人間のもとに嫁いでくるのです。
ちょっとした油断が死を招く厳しい世界とは全く異次元の、やさしく、あたたかく、ほのぼのとした世界、常に死の危険と隣り合わせの過酷な世界、そんな世界とは無縁の生活……。
「この人となら、仕合せに生きていける」
そう思わせる魅力が、動物を助けた人間には感じられるのです。
それを「やさしさ」と云ってしまうのは簡単です。
しかし、その「やさしさ」とは、じつは比類のないものなのです。
たいていの人間にとっては、動物とは、自分の生存を維持するための、「材料」にすぎません。
魚、豚、鶏、牛、……みなそれらの動物を殺し皮を剥ぎ、身を削り取って煮たり焼いたり炊いたりして、自分が生きるための食料とします。
或いはその皮を剥いで身にまとい、寒暑をしのぐための衣服とします。
それが人間にとっては、当たり前のことなのです。
動物の側から見れば、自分たちをそのような「材料」としてしか見ていない人間が、罠にかかった自分を助けてくれるのです。
すばらしいことです。
そこには、人間も動物もない。ともにこの大自然で生きている、ともに命をもっている存在なんだ、と、云う思いがあります。
その心性に、命を助けられた動物は惚れ込むのです。
そうして、人間の姿をとって、彼のもとに嫁いでくるのです。

三.共棲 - 守るべき契約や規則がある。
四.労働 - 富をもたらす。
「つう」と名のり、与兵と暮らすことになった鶴は、動物のときには考えられもしなかったような仕合せな日々を過ごします。
鷲や鷹のような、恐ろしい同属の攻撃に怯えることもありません。
人間の鉄砲や弓に傷つけられる恐れもありません。
傍らにはやさしい与兵がいます。
村の子供たちは、彼女を慕い、「おばさん、おばさん、遊ぼうよ。遊んでよ」と、云って、その後をついてきます。
大人にとって子どもとは、未熟なもの、育てらるべきもの、これから大きくなるもの、です。
謂わば、大人は教師であり、子どもは生徒です。
しかし、本来が動物であるつうには、そんな人間の了解はありません。
命あるものは、みな自分と同じ存在、動物も人間もない、この大自然に生きるものは、みな同じ仲間なのだ、と、云う、思いがあるだけです。つうには、大人も子どももありません。共に同じ大自然の存在なのです。
それがつうのやさしさであり、その思いがにじみ出るからこそ、子どもたちはつうの後を慕ってくるのです。
与兵の暮らしは貧しいものですが、本来動物(鶴)であるつうにとっては、「貧しさ」と云う考えはありません。
本来動物であるつうにとっては、「金銭」も「豊かさ」も「貧しさ」も、なんのことなのか、分かりません。
つうに分かるのは、あたたかく、ほのぼのした、平和で、仕合せな、毎日の暮らしのことだけです。
それでもつうは、人間が、「金銭」とか、「豊かさ」とかを希い、求めていることは理解しています。
それゆえにこそ人間は、自分たち動物を捕え、その肉を食し、その皮を剥ぎ、その羽毛をむしり、自分たちの生活の具に資するのです。
つうは夜になると一室に籠り、元の鶴の姿に戻って自らの羽を抜き、翌朝には美しい布を織り上げます。
つうには、なぜ人間が、自分たちの羽毛をむしりとって、布をつくるのか、その理由は分かりません。
つうに分かるのは、人間は自分たちを捕えてその肉を喰らい、自分たちの羽毛をむしって、自分たちの身を飾る布にする、恐ろしく、残酷な存在だ、と、云うことです。
そして人間たちは、自分たち鶴の羽毛で拵えた布を手にすれば、たいへん喜ぶ、と、云うことです。
つうは自分の羽毛を抜いて、美しい布を織り上げます。
与兵に喜んでもらいたい、与兵の喜ぶ顔が見たい、その一心で、つうは、文字どおり、身を切るような痛さを堪えて、みずからの羽毛で布を織り上げます。
つうは、与兵に金持ちになってもらいたいわけでも、もっといい暮らしをしてもらいたいわけでもありません。罠にかかった自分を助けてくれたお礼などでは、もとより、ありません。
ただひたすらに、与兵の喜ぶ顔が見たいだけなのです。
愛する人の喜ぶ顔が見たい、愛する人に、いつまでも仕合せでいてほしい……。
そのために、なにかしたい。自分のしたことで、好きな人が、愛する人が喜んでくれる、それこそが、自分の仕合せである……。
つうがみずからの羽毛を引き抜いて、一枚の布を織り上げる裏には、そのような美しい心が籠められているのです。
だからこそ、つうの織り上げた布は、都でも評判になるくらい、美しくも優しいものとなるのです。

つうはその布を織り上げるための室に籠るとき、なにがあろうと、絶対にこの室のなかを覗かないでください、と、念を押します。
羽毛を抜いて布を織り上げるためには、つうは人間の姿から、元の鶴の姿に戻らねばなりません。
もしその姿を見られたら、つうは、もはや与兵と一緒に暮らしていくことは出来ないのです。
いかに人間の姿をとっていようとも、つうは鶴です。
与兵は人間です。
鶴と人間、本来、「結ばれるはずはない」ふたりです。
いえ、「結ばれるはずはない」どころか、「結ばれてはいけない」のです。
そこには、自分の意志や愛情ではなんともしがたい、厳然たる壁があります。
「結ばれない」のであれば、その困難を打ち破ることは、たとえその可能性は低くとも、不可能ではないでしょう。
しかし、「結ばれない」のではありません。「結ばれてはいけない」のです。
これは大自然の掟、いかなる意志でも愛情でも覆すことの出来ない、絶対の掟なのです。
どんなに愛していても、どんなに想い、どんなに慕っていても、決して壊すことの出来ない厳然とした壁が、つうと与兵のあいだには存在しているのです。
つうはそんな壁を意に介さず、与兵のもとに嫁いできます。つうの、与兵を想うその想いには、大自然の掟も意味を成しません。
しかし、悲しいかな、その掟は、厳然として、存在するのです。

つうは時折、人目を忍んで村外れの湖水に行き、そこで元の鶴の姿に戻って、思う存分羽ばたき、水を浴び、大自然のなかを遊弋します。
そして、ふたたび人間の姿に戻って、与兵のもとに帰ります。
そのときのつうの表情は、どのようなものだったでしょうか。
愛する与兵との仕合せな生活、思ってもいなかったような、なにひとつ不満のない生活、愛する与兵が傍にいる、与兵のやさしさに温かく包まれている、平和で、のんびりとした、もはや命の危険に見舞われることのない、穏やかな生活……。
なのにつうは、そんな人間の姿を捨てて、元の鶴の姿に返ります。
窮屈な仮の姿、人間の姿を捨てて、自分本来の鶴の姿になって、思う存分、大自然のなかを遊弋します。
そして人間の姿に戻ったとき──、
どんなに愛されていても、どんなに仕合せであっても、やっぱり自分は鶴なんだ、人間じゃないんだ、与兵とは違うのだ……。
そう感じざるを得なかったとき、鶴としてのびのびと大自然のなかを遊弋していたときの愉しさ、その解放感……、本来愉しいはずのその感動を、それが愉しければ愉しかっただけ、人間に戻ったつうは、哀しく思ったでしょう。

信太の森の葛葉伝説では、狐が自分を助けてくれた男のもとに嫁ぎ、愛されて子を成しますが、或る夜、自分本来の狐の姿に戻って森に遊び、ふと気がつくと、人間でありながら狐に返った自分の尻尾をつかんで、自分の子供が泣いているのを目にします。
――あぁ、やはり自分は狐なのだ。どんなにうまく化けても、自分は人間にはなれないのだ……。
そう思った狐は、一首の歌を残して、森の中に去って行きます。
「恋しくば 訪ねきてみよ 和泉なる 信太の森の 恨み葛葉」
この歌にこめられた狐の気もちは、いかなるものだったのでしょうか?
自分を助けてくれた人間のもとに嫁いできた狐は、いったいなにを恨んで、信太の森に帰って行ったのでしょうか?
どんなに恋い慕っていても、厳然と存在する、大自然の掟でしょうか? 人間になろう、恋い慕う男と同じ種族になろうと努めても、どうしても抜けきれない、狐の本性でしょうか? 狐として、大自然の森のなかを思う存分に駆けまわり、しびれるような解放感を感じてしまう、自分自身でしょうか? 狐に生れて来た、自分の宿命でしょうか?
おそらくはそのすべてでしょう。
しかしなによりもつらいのは、それらの宿命を、“宿命”としか云いようがない、その宿命を、恨むことができない、恨もうと思っても、とても恨めない、その思いでありましょう。
恋する男が人間であることも、人間になろうと努めても人間になれない自分をも、自分の身内に潜む、消そうとしても消せない、狐としての本性をも、とても恨むことが出来ない、恨めない、そんな自分の気持ちをこそ、この狐は、恨んだのでしょう。

中島みゆきさんの曲に、『うらみ・ます』と、云うのがあります。
わたしの友人がこの曲を評して、
「相手の男を恨めたら、こんな曲にはならないよね」
と、云ったことがあります。
的確な評言です。
この曲中の女性には、相手の男を恨む、充分な理由があります。この女性が相手の男を恨んでも、みなが、そりゃそうだろうな、と、納得できるだけの、充分な理由があります。
しかし、この女性は、相手の男を恨めないのです。
恨もう、恨もうとしても、とても恨めないのです。
彼女が恨んだのは、相手の裏切りや軽薄などではなく、相手に裏切られ、弄ばれて、それでもなお、相手を恨めない自分自身、そんな男に恋してしまった、その運命、その宿命、なのです。
だからこそ、『うらみ・ます』は、あのように哀しい、あのように怨念のこもった歌になるのです。

五.破局 - 正体を知ってしまう。(見るなのタブー)
六.別離
つうの織った布は都でも評判となります。
つうの織った布が高値で取引され、与兵の友人たちは、与兵を口説いて、つうによりいっそう、その布を織らせるように仕向けようとします。
つうがもっと布を織ってくれれば、もっと儲かる、たくさん儲けて、都へも行けるようになる。
与兵はつうに、よりいっそう、布を織ってくれるように頼みます。
つうには、与兵の心情が理解できません。
なぜ儲けたいのか、なぜ都に行きたいのか。
いまのままで、充分、仕合せではないか。
もともとが動物であるつうには、そんな人間の感情は理解できません。
「より多くを得たい」、「よりよくなりたい」……
プラス方向の“より”を希む感情、マイナス方向の“より”を懼れる感情、それは、人間特有の感情なのかもしれません。
与兵がより多くを望み、よりよきを望んで、布を織ってくれと頼む哀しさは、その布を織り上げるために、自分が骨身を削っていることを解ってくれない哀しみではありません。
自分が求めるものと、与兵が求めるものとが、根本から違っているのだ、と、云うことを理解させられた哀しさです。
それはまた、しょせん自分は鶴で、与兵は人間なのだ、と、云うことを、あらためて確認させられた哀しさでもあります。

その夜、与兵はかねてからの誓いを破って、つうの籠る一室を覗いてしまいます。
それはけっして、好奇心に負けたからではありません。
夜毎布を織るつうの身体が痩せ細り、衰弱していくのが気にかかったからです。
つうを思う気持ち、つうを大事に思う気持ちが、与兵にタブーを破らせます。
なんと皮肉なことでしょうか。その人を思う気持ちが、その人のことを大事に思う気持ちが、その人のいちばん触れられたくない部分に、触れてしまったのです。
与兵は、つうの本当の姿を見てしまいます。

鶴である自分の姿を与兵に知られたつうは、一反の布を残して、天空へと去っていきます。
与兵はその鶴を追いかけて、村を駆け抜けます。
「つう、つう、つう~」
与兵には、大自然の掟も、「結ばれてはいけない」掟もありません。
そこにあるのは、ただ、自分が愛した存在、自分が大事に、大事に思っている存在だけです。
それが鶴であろうと、人間であろうと、与兵には、関係ないのです。
鶴を愛し、鶴をいとおしみ、鶴と夫婦になる――、他の人間からすれば、バカげたことでしょう。
しかしそれは、そんなにバカげたことなのでしょうか。
すべてこの大自然のなかに生きるものは、この大自然のなかに生きとし生けるものは、動物も人間も関係ない、たった一つの、大切な、大切な、そのものにしかない、“生命”を育んでいるのです。
その生命をいとおしみ、大事に思い、その仕合せを希う、相手が鶴であろうと、人間であろうと、そんなことは関係ない……。
つうも、与兵も、同じ思いです。
だからこそ、つうは与兵のもとに嫁いで来るのですし、与兵も、つうが実は鶴だった、と、分っても、そのようなことは意に介さず、つうの姿を求めて、村中を駆けめぐるのです。
ともに愛し合い、ともにその存在を大切にし合い、その人がそこにいる、ただそれだけで、たがいに仕合せだったふたりを引き裂く、その大自然の掟とは、なんと無情で、なんと哀しいものなのでしょうか。

これを、民話だけの話、と、思いますか?
いまもあるんじゃ、ないでしょうか?
年齢の差、育ちの違い、国籍の違い、さらには、性別の異同まで……。
先日、渋谷区が、同性同士のカップルのパートナーシップを公認する「パートナーシップ証明書」を交付しました。全国で初めて成立した「同性パートナーシップ条例」に基づいたものです。
なんと素晴らしいことでしょうか。
この快挙は、たんに同性同士のカップルを、異性同士のカップルと同等に認めることを公認したにとどまらず、本来人間にとって大事なものはなんなのか、人間が人間と共に生きて行くのに大切なものはなんなのか、その問いに、一定の答えを示したものです。
今回のこの渋谷区の決定は、性の異同は、愛の上においては、人間同士が共に生きて行こうとする上においては、決定的に大事なものではない、と、判断したものなのです。
なんと、素晴らしい判断でしょうか。
しかし、この判断が、じつに素晴らしい判断であると同時に、哀しい判断でもあるのは、逆説のようですが、この判断が、“素晴らしい判断”であることです。
性の異同が、お互いを大切に思い、お互いに人生行路を歩んでいこうとする二人にとって、なんの障害にもならない、なんの差し障りもないものであったならば、この判断は、「当たり前」の判断であって、「素晴らしい」判断とはならないでしょう。

いまでもあるのですね。つうと与兵の間を引き裂いた、厳然たる、“大自然の掟”が……。
本来、おたがいの愛情だけが大切であるべきはずのふたりのあいだに、なんとつまらない、しょうもない、そのくせ堅固な、数々の“掟”が、存在するのでしょう……。
そんなつまらない“世間の掟”が存在するかぎり、この「夕鶴」は、哀しくも美しい魅力を秘めて、いつまでも、わたしたちを魅了しつづけるでしょう。

 信州松本からJR大糸線に乗り換えて、古びた二輌連結の客車に揺られること約二時間、最初は物珍しかった山間の景色にも漸く飽きてきた頃、列車は「百池ヶ村」と看板の懸った、納屋の如き無人駅に到着する。

 長野県の北西に広がるこの村は、北は虎臥連山を境として新潟と接し、西は白鹿連山を境として富山と接している。この両連山の麓にスキー場があるのだが、殆どの客は白馬方面に流れてしまい、余程の事情通ででもない限り、この村まではやって来ない。

 村は林檎の栽培と酪農を主な生業としている。いったいにこの地方は、田畑の耕作には不向きな土地柄で、それはこの百池ヶ村も例外ではなく、かつては、村民たちの糊口を凌ぐのもやっと、と、云う、有様だったが、明治の中頃から酪農が始まり、更に大正の末年から昭和の初頭にかけて、広範く林檎の栽培が行われるに及んで、漸く村民たちの生活も豊かになり始めた。現在、百池ヶ村の林檎酒やアップル・サイダーと云えば、そのさわやかな口あたりや、ふくよかで丸味のある味わいによって、若い女性たちのあいだで、ひそやかな人気を呼んでいる、とのことである。

 この林檎酒などとともに、最近になって注目を浴び出したのが、スキー場近辺に軒を連ねる温泉宿である。口コミの威力というのはバカにできないもので、近年この村の温泉群が、リュウマチや神経痛、それに肌の美容や各種の皮膚病にも、その効能バツグンであるとして、徐々にその人気を増して行ったのである。

 百池ヶ村はその広大な面積を、ヒトデの足のように伸びた背の低い山々によって分断されているため、交通の便はいたって悪い。しかし都会の喧騒に疲れた人々にとっては、なまじ多くの湯治客によって俗化され、半ば観光地化した温泉地などよりも、この村のような鄙びたところのほうが、かえって有り難いのかもしれない。たしかに、煩瑣を避けて、都会の塵労を洗い落とし、ゆったりのんびりくつろぐには、この村の温泉街は、恰好の場所であろう。

 村内に百の池がある、と、云うところから、百池ヶ村、と、名付けられた、と云われているが、その池というのは、実は温泉のことである、という説もあるくらい、この村には温泉が多い。百は云い過ぎとしても、大小取り混ぜたその数は、決して少ないほうではない。なかでも一番有名なのが、村の北西に位置する、慈恩温泉である。

 その昔、この地方に流行(はや)り病が起こって村民たちが苦しんでいたところ、諸国を遍歴されていた弘法大師が、たまたまこの地を通りかかった。村民たちの苦しみを不憫に思われた大師は、村の端れに温泉を開き、その傍に小屋を立ててそこを仮の(すまい)と定めると、村中の病人たちが快癒するまで、滞在なされた。村民たちは大師の厚恩に深く感謝し、大師の開かれた温泉を慈恩温泉と名付け、子々孫々にまで、その高徳を伝えることとした……。

 これが現在に伝わる、慈恩温泉の由来である。現在では村のほとんどの温泉宿がこの付近に集中して、たがいに本家元祖のあらそいを繰り広げている。

 この温泉に来ようという人は、百池ヶ村駅前のロータリーから出ている、慈恩温泉行のバスに乗ればよい。所要時間は、約一時間と三十分。少々長い道のりだが、これは先程も述べたように、村内が背の低い山々によって分断されているため、山をひとつ、越さねばならないからである。

 駅前の商店街には、喫茶店や大衆食堂、みやげ物屋などが、構えを連ねている。一軒ずつだが、コンビニやゲーセン、カラオケ・ボックスもある。駅前から少し行ったところの横丁には、何軒かの飲み屋も軒を並べている。村で一番高い建物が五階建ての百貨店と量販電気店で、それも駅前から見渡すかぎり、二軒ほどしか見あたらない。坂道が多く、起伏にとんだ町並みだが、視界をさえぎるような高い建築物がないため、彼方の山なみがはっきりと見える。道も片側二車線の道路といえば、駅前から北方にのびる大通りと、スキー場のふもとを東西に走る百池ヶ村街道ぐらいで、この二本が、村の主要街道になっている。

 都会の喧騒に疲れた身には、桃源の里のような別天地である。せわしない日常の俗塵を洗い落として命の洗濯をし、心身ともにリフレッシュするには、絶好の土地である。

 しかし、人は見かけによらないというたとえもあるが、それは村も同じである。一見のどかで平和に見えるこの村にも、その長い歴史のうちには、実に血なまぐさい、やりきれなくなるような話もあったのである……。

 

 それは、天保七年と云うから、西暦でいえば一八三六年、徳川幕府の治世も末期にさしかかっていた頃のことである。

 幕府の統治能力は、限界に達していた。諸藩の財政はすでに破綻の様相を呈しており、農民は重い年貢と深刻な飢饉に苦しんでいた。

 翌年、大坂に勃発した大塩平八郎の乱に象徴されるように、当時は全国が大飢饉にあえいでいた。世に云う、天保の大飢饉である。

 先述したように、この地方はもともと耕作には不向きな土地柄だったが、それがこの飢饉によって、潰滅的な打撃を被った。打ち続く凶作に、一俵の米も収穫できない年が続いた。少ない蓄えはすぐに底をつき、村はたちまち、飢餓のどん底に落ち込んだ。粟や稗の水粥をすすっていられたうちはまだいいほうで、ついにはネズミや犬猫を殺してその肉を喰らい、或いは草の葉や木の根ッ子、木の皮までをも口にして、飢えをしのがざるをえないところにまで追い込まれた。

 年寄りや子どもたちが次々と亡くなり、やがて若い娘たちの姿が見えなくなった。

 飢えた家族たちの命をつなぐため、或る者は遊女となり、或る者は妾となって、あちこちの町に売られていったのである。いつの世にも、犠牲となるのは女である。

 三々五々と売られていく娘たちのなかに、みずほの姿があった。

 みずほには平八という、将来を誓い合った青年がいた。平八は庄屋の息子だったが、当時のような状態のなかにあっては、庄屋もなにも、あったものではない。平八はなすすべもなく、村をあとにするみずほの姿を見送る以外になかった。そのときみずほは十五歳、平八は十七歳だった。

 愛する女が売られていくのを、ただ黙って見ているしかなかった平八は、それからの数年というもの、食うものも食わず、がむしゃらになって働いた。朝は朝星、夜は夜星を頂いて、ただひたすらに鋤鍬をふるい、真ッ黒になって働いた。痩せ細っていく身体をものともせず、村民たちとはおろか、両親とすら、ほとんど口をきかなくなった。襤褸のような野良着をまとい、蓬髪を振り乱して仕事に明け暮れるその姿は、まるで何かに、取り憑かれたかのようだった。

――平八のヤツ、気が触れよったんじゃ。

 村の人々は、口々にそうささやきあった。

 そうして、数年の月日が過ぎていった……。

 

 或る年の冬、平八は血を吐く思いをして貯めた銭をもって山を越え、みずほの売られた先を訪ねていった。

 山を越え、数里の難路を歩き、貧しい衣服を襤褸となし、足袋の破れた足に血を滲ませ、ようやく彼は、とある街道沿いの宿場町に暖簾を出している、一軒の女郎屋にたどりついた。

 あかぎれのにじむ足でその店を訪ねた平八は、みずほが数日前に、そこを逃げだしたことを知らされた。みずほは、その容姿艶色たり、また、気心細やかであったため、店一番の稼ぎ頭だったが、その待遇は他の遊女同様、牛馬にも劣るものだった。いや、店で一番多くの客を取らされていただけに、その待遇はいっそう苛酷なものだったといえるだろう。

 とまれ、店一番の稼ぎ頭が逃げ出したということで、店では奉公人たちを走らせて、厳重な捜索を行った。そこに平八が、みずほを訪ねてきたのである。

 平八はその場で捕らえられ、執拗にみずほの行方を追求された。みずほが身を隠しそうなところを、なんとしても聞き出そうというのである。尋問は熾烈をきわめ、拷問は三日三晩にわたって続けられた。平八はボロボロになり、あげくの果てには、敝履のごとくに放り出された。

 数年にわたって酷使し続けてきた肉体に、三日三晩の拷問は致命的だった。雪降る裏路地に放り出されたとき、彼はもはや、人間の残骸というにすぎなかった。骨と皮だけに痩せ細った身体は、いたるところ鞭打たれ、ズタズタになった皮膚から滲みだした血で、全身が赤黒く染まっていた。瞼も鼻も、いや、顔全体が、紫色に膨れあがり、唇は裂けて、何本かの歯がへし折られていた。歯だけではない。脚も腕も、肋骨も、指の骨にいたるまでが、へし折られていた。鼻からも口からも血を流し、両手両足の爪はことごとく剥がされていた。垂れ流した大小便は下半身にこびりつき、流れだした血と混じり合って、異様な臭いを放っていた。

 それでも平八は生き延びた。死ぬわけにはいかなかった。

 彼は木の枝にすがって身体を支え、気息奄奄たるありさまで村に戻ってくると、しばらくは泥のように眠って、その体力と気力とを回復した。

 目覚めたとき、平八は鬼と化していた。愛する女にも会えず、苦労して貯めた銭は巻き上げられ、店の者にさんざんいたぶられて、幾度となく三途の川を渡りかけた平八には、ひとつの確信があった。それが彼の命をつなぎ、彼を村に戻らせて、彼を鬼と化したのである。平八は、店の者がみずほを隠している、と、堅く思い込んだのである……。

 

 黒雲が空を覆い、雪がはげしく降りしぶく、或る夜のことだった。丑三ツの闇に沈んでいた宿場町に、ときならぬ喚声と、けたたましい悲鳴が響きわたった。

 尋常ならざるその物音に、なにごとならんと外をのぞいた町の人たちは、夜にふぶく雪をすかして、天を焦がすが如くに燃え上がった、地獄の炎を見た。耳は阿鼻叫喚の叫びを聞き、目は逃げまどう亡者の群れを、彼らを追い回す獄卒たちの姿を見た。

 異様な光景だった。亡者の如く逃げまどう人々は、夜とはいえ、立派な着物をまとっていた。それに対して獄卒たちが身につけていたものといえば、それこそ亡者さながらの、粗末なものだった。彼らは手に手に竹槍や鋤鍬をもち、逃げまどう人々に襲いかかっては嬲り殺しにした。それはまさに、この世の地獄だった。

 その地獄に現れた、残忍無残な獄卒たちこそ、平八に率いられた、村の若者たちだった。

 長き眠りから覚め、鬼と化した平八は、村の若者たちを煽動して、彼らの恋人、許嫁、幼なじみや妹の売られていった先を襲撃したのである。

 事を起こすにあたって彼らはまず、みずほの売られた先を襲撃した。

 物音に驚いて起きだしてきた店の者たちは、雨戸を破って乱入してきた平八たちの手にかかって、たちまちのうちに絶息した。彼らはところ狭しとばかりに暴れまわり、店の者たちを殺害しては、売り飛ばされていた娘たちを解放した。しかし、店中を破り壊して回ってみても、みずほの姿は、ついに見あたらなかった。そしてそのことが、平八の憤怒を、よりいっそう激しくした。彼らは娘たちを助け出すと、目ぼしい金品を略奪し、店のあちこちに火をかけた。そして威勢のよい鬨の声を挙げた。

 地獄がはじまった。

 平八たちは次々と富裕な商家――米屋、酒屋、呉服屋、高利貸し、女郎屋など――を襲い、店の者と見るや、手当たり次第にこれを殺戮した。そして金品を強奪しては火を放ち、売り飛ばされていた娘たちを解放した。しかし何軒の家を襲撃しても、みずほの姿だけは、一向に見あたらなかった。

 平八はますますいきりたち、それに比例して、暴虐の度合もますます烈しくなった。降りしぶく雪をもものともせず、愛する女の姿を求めて荒れ狂うその姿は、梵天帝釈を蹴散らす阿修羅さながらだったと、『百池ヶ村郷土史』は伝えている。

 彼らの暴動は、数刻後には藩政府の知るところとなった。払暁とともに、藩の軍勢が動きだした。憤怒に燃え、烈火の如くに暴れまわる平八たちも、組織的な藩の軍勢を相手にしては、勝ち目はなかった。

 藩兵の火縄銃から逃れ、槍衾をかいくぐって村へと逃げ帰れたのは、平八はじめ、わずか五、六人余りだった。

 命からがら村へと逃げ帰ってきた平八たちを出迎えたのは、竹槍で武装した、村の大人たちだった。平八たち村の若者が引き起こした事態を知った村民たちは、自分たちに後難の振りかかるのを恐れ、もし彼らが村に戻ってくるようなことがあれば、自らの手で彼らを捕縛し、その身柄をお上に引き渡すことによって身の安泰を図ろうと決議したのである。

 平八は庄屋の息子だったが、それだけに、事は重大だった。事は村全体の死活にかかわるものだった。それだけに庄屋といえども、その決定に反対はできなかったのである。

 平八は捕らえられた他の仲間たちとともに、磔刑に処せられた。彼は三尺高い柱の上にくくられながらも、竹矢来に群がる人々のなかにみずほの顔を捜し求め、その名を叫びつつ、刑吏の槍に貫かれた、と云う。

 その夜、虎臥山の山中で、凍死したみずほの死骸が発見された。売られた先からやっとの思いで逃げだし、極寒の山中をさまよったあげくの死だった。身にまとった着物はズタズタに裂け、裸足の足は血にまみれていた。身体中生傷だらけで、ほどけ乱れた黒髪が、血の気の失せた蒼白の顔を覆い、その合間からは、両眼が虚ろに見開かれていた。もはや生命の焔を宿さぬその瞳は、かつて平八と過ごした懐かしい村を、幼き日々の思い出のこもる、幸せに暮らした生まれ故郷の村を、じっと見凝めていたという。

 翌年のことである。

 みずほの売られた先の大旦那は、平八一党の打ち壊しのときにも九死に一生を得、以前と変わらぬ日々を送っていたが、ある夜突然、原因不明の高熱を出して床に就き、三日三晩苦しんだ末に、口から黒い血を吐いて悶死した。その苦しみようは一通りではなく、家人たちは、何かの祟りではないかと、恐れ慄いた。

 一方村のほうでは、雪の降る夜に、村人たちが凍死するという怪事が続発した。それにともなって、美しい女の幽霊が出る、と云ううわさが広まった。その女は、見たところ十七、八歳、みめよき娘で、降り積もる雪よりも白い肌をもち、吹きすさぶ風につややかな黒髪を靡かせた、ゾッとするような美少女だったと云う。

 『百池ヶ村郷土史』と云う民間伝承を集めた小冊子のなかに、その幽霊に遭遇した、或る村人の話が残っている。

 それはことのほか寒さの厳しい、或る夜のことだった。彼は友人の一人とともに、隣村からの帰途にあった。

 暮れ方から降りだした雪はいよいよその勢いを増し、この分ではまた吹雪になるかと、二人は首をすくめて、足を早めた。

 そのときである。彼らは烈しくふぶく雪のなかに、白い着物をまとった、うら若い乙女の姿を見たのである。

 彼らは驚きのあまり、その場に腰を抜かしてしまった。雪降る夜に現れる美しき幽霊のうわさは、彼らも耳にしていたのである。

 彼女は、まるで宙を滑るように近づいてくると、彼の連れに向かって、何やら耳打ちするように身をかがめた。彼の連れは目を見張り、顎を落として首を振った。その眦は裂けんばかりに見開かれ、面には、驚愕の表情が凍りついていた。

 娘はかがめていた身体をスックと伸ばすと、今度は彼のほうに近づいてきた。すると彼の連れは、喉の奥から、ヒューッ、という奇怪な音を漏らし、憑きものが落ちたようにぐったりとくずおれた。

 彼は生きた心地もなく、ただ震えているだけだった。全身が麻痺したように痺れ、その幽霊から、目をそらすことさえ出来なかった。

 彼女はそんなことには頓着せず、ゆっくりと、滑るように近づいてくると、さっきと同じように身をかがめ、彼の耳元にささやいた。

 ――平八さんは、どこにいる?

 それは耳に聞こえたというよりも、頭のなかに、じかに話しかけられたような感じだったと云う。

 彼は何と答えてよいか分からず、ただガチガチと、歯を打ち鳴らすばかりだった。口のなかはカラカラに乾き、舌はひきつって、口蓋に張りついた。彼はやっとのことで生唾を呑み込むと、なにやら自分でも訳の分からぬことを口走った。

 彼が恐怖に怯えた目で見ていると、娘はすっと身を離し、いずこともなく、去っていった。

 彼は長いことその場にへたり込んでいたが、降りしきる雪の寒さが、その意識をハッキリさせた。彼は大慌てで家に戻ると、頭から布団をかぶってその夜を過ごした。

 その後彼は、三日三晩と云うもの、烈しい高熱に浮かされ、悪寒に慄え、悶え苦しみながら床の上を転げまわり、しきりとうわ言を発した。

 三日後、彼は大量の黒い血を吐いて、絶息した。みずほの売られた先である娼家の大旦那と、おんなじ死にざまだった。彼は、平八たち村の若者をお上に売り渡すことを最も熱心に主張した大人たちのひとりだった。

 他の大人たちも、つぎつぎと、不審な死に見舞われた。

 ひとりはある夜、憑かれたような足どりで崖端まで行き、そこから転落した。ひとりは突如、なにやら大声で喚きながら着ていた服を脱ぎ、素っ裸になって、森のなかへと駆け出して行った。或る大人は、仲人を務めた宴席でいきなり暴言を吐きはじめ、新郎の頭を殴りつけて大笑し、そのまま発狂してしまった。

 その現場を目撃した村人たちの話によると、いずれの場合でも、白い着物をまとった、うら若い乙女の姿があったと云う。

 娘の幽霊がみずほであることは間違いなかった。彼女は死して後もなお、愛しい男の姿を求めて、雪の山野を彷徨っていたのである。

 その事を知った村人たちは、それまで別々の場所に、犬猫同然に埋めてあった二人の亡骸を掘り出し、丁重な供養を行ったのち、あらためて、二人一緒の墓に埋葬した。

 その墓は、現在、「夫婦塚」と呼ばれて、虎臥山の中腹にある、葛葉神社の一角に奉られている。

 以上が百池ヶ村に伝わる、雪女伝説のあらましである。この伝説の最後を、『百池ヶ村郷土史』は、次のような文章で締めくくっている。

「現在でも雪の烈しい冬の夜には、白い着物をまとった、うら若き乙女の幽霊が出ると云う。もし彼女に、『平八さんは、どこにいる?』と訊かれたら、迷わず『葛葉神社の夫婦塚』と云えばよい。するとその幽霊は、あなたに害をなすことなく、その姿を消すであろう。」